クムロードの話  教育雑感(2)

高校最上学年12年生(シニア)になると、各自のロッカーが廊下などでなくシニアルームに備えられていて、その年のシニア連が好きなように使える場所になっていた。長男は小学校でマスチャンピオン、中学ではアワードを総なめに近い良い成績で終わり、結構学年のリーダー格になっていて、シニアルームへは率先して我が家の卓球台や古いソファを運び込んで部屋作りに協力していた。シニア学年は、毎年卒業アルバム代わりのスクールブックの編集からシニアのための最終年の記念行事迄大学受験の合間に山ほどすることがあるので、忙しく充実した毎日になる。又受験のために活発にActivityをやる必要があるので、毎日課外活動が終わる9時ごろまで駆けずり回る生活が当たり前であった。9時前に家に居てTVを見ているようではトップクラスの大学への合格は無理だ、と言われていた。

シニア学年には又日本には無い制度として、大学を真似てか成績のトップ10%を「クム・ロード」として特別な評価をするしきたりがあった。11年生の成績で該当する生徒は歴代のメンバーが作る「クム・ロードの会」に入会が許され、親子で入会式に呼ばれて先輩方と交流する。その後は特に会合などもなかったように思うが、メンバー(10-12人)はシニアルームのほか彼らだけの部屋が貰えて、ロッカーもその中にあり、そこで宿題をやるなどメンバーだけ自由に使える特別扱いをしてもらったようである。孫の高校ではメンバーは卒業式のガウンに特別なマフラーを付けて颯爽と歩いていた。主要教科にオナーズクラスがあって、進み方や内容が高度でそのクラスは歴然たる差が出るし、その学科は全国統一のテストを通れば大学で免除されて次へ進むことが出来る。

アメリカの教育は能力本位の差別社会が色々な場面で顔を出しくるな,と感じられた一経験であった。

 

 学区選びと教育   アメリカの教育雑感(1)

アメリカの教育制度は日本のように全国統一ではなく、州ごと、もっと現実的に学区ごとで非常に柔軟である。学区の教育方針になじんだ住民が同じ地区に集まり、学区の気質や雰囲気が作られてくるようである。名のある進学校とフレンドリーな職業科目もある高校では同じ公立とはいえ、父兄の考え方からカリキュラムまですべてが違ってくる。不動産にかかってくる学校税にも差があるので住民のレベルにも微妙な差が見えてくる。

従って、子育て世代の住宅選択には学区選びが最も重要な要素になる。

殆どはキンダーから12年生までの13年(K-12)が義務教育で、公立高校(4年間)1校を中心に学区の大きさでいくつかの中、小,幼がある。学制は、Kを除いて6・2・4だったり、5・3・4、中には4・2・2・4など。学校の数も学区内の住民の人数などで決められているようだ。学区によっては住民レベルが地区によって偏っていて学区内の公立校のレベルが一律でない場合に、レベルを同じにするために生徒を混ぜてバスで遠い学校へ通わせる、いわゆる「パッシング制度」がある学区などもあってこれは評判が悪かった。

学区の高校はそれぞれ歴史もあり、学風が住民にしっかり認識されていて、学齢の子供がいなくても住宅にかかってくる学校税が高くなった・・とか文句は言いながらも住民は誇りをもって学区を支えているようだ。卒業生の進学先からSATなどの点数や分布、全国レベルのどのグループに属しているか等、果ては教授陣のマスターやドクターデイグリーの%までが公表され、学区ごとの違いが日の目を見るのに驚いた。日本では考えられない(差別)容認である。

小学校からEnrichmentと言って優秀な子供のために特別なクラスを作って高度な授業を行う場合も多々見られる。これは、平等とは「皆が同じレベルで学ぶのではなく、その子の能力に合った教育を受けられること」という考えに基づくもののようである。例えば、娘がピアノを習っていた地元の音楽学校でバイオリンの伴奏を引き受けていた1年生の男の子は天才で、高校でもトップのチームで数学の対校戦に出ていた娘が「あの子、私と同じことやってる」と仰天し、同年齢の友達と接する為だけに週1で小学校へ行く以外は全て教育委員会が個人教授をつけていたそうである。レッスンの合間に母親の膝にもたれて甘える子供からはそんなことは想像も出来なかったが、聞いたところではそんなに珍しいことでは無いようだった。

実際娘も形は違うが似たような経験をした。小さい時から「算数のK子ちゃん」と言われてきて、当地に来ても英語は中々追い付かなかったが、数学だけは勘も良く、7年生の州の一斉テストで運よく州チャンピオンになった。開校以来のことだというので数学の先生の目に留まり、7年をスキップして同じ先生の8年のクラスに進むことになった。8年のクラスに追いつくまで、クラスのトップの生徒が教室の隅で教師役を務めてくれて3か月でクラスに合流したと後で聞いた。そのために第2外語が取れなくなって、代わりに9年数学をインデペンデントという放課後先生との対面授業を週2回行い単位をもらった。次いで8年生で数学10を、9年生で11を取り、10年生で12が終わってしまい次の年には好きで良い成績が取れる数学がもう無い状態になった。そこで次の年は先生の勧めで近くのコミュニテイ・カレジで大学のカリキュラスlllというクラスを取ることになり、親は費用を負担し、本人がまだ免許を持っていなかったので週3日運転手を務めて単位を取ることにした。大学ではその科目は免除されるそうである。

年度末の恒例のガイダンスとの面接で進学もにらんで次年度の科目を決める段になって、変則で数学を終わってしまった為に、人数が少ない少数精鋭校なるが故に科目編成がやりくりできなくなり、いっその事11年を飛ばして12年に進み、1年早く大学を受けたらどうか、と話が跳んでしまった。元々早生まれで日本の学年とこちらの年齢枠が違うために同級生より1年下の学年にいたのが不満であったため娘もその気になり、急遽あと1年で卒業に必要な必修科目をこなす段取りに振り回され、夏休みには6週間のクラスを3つも取って、理工科へ進むために無くても良い学科を全てカットして滑り込みでシニア学年(12年生)に進級するという思いがけない事態を経験することになった。入試は1年上の新しい仲間と一緒に普通に行われ特典は無い、というので、親としては、無理をしたために希望の大学に入れなかったら後悔しないか、又早熟なアメリカ人の中で早生まれの上に1年早く入ってまともに友人たちと付き合っていけるのか、の2点が心配だった。が、一方でやれるだけやってみるのもアメリカならではのこと、とも思って本人に任せることにした。

結果、とにかく世界一の工科大学に入ることが出来、宇宙を専攻して奨学金を貰って修士学位も取れ、NASAの技術者として50代になった今もオリオンだ、ISSだと親を煙に巻いている。日本でも高2からの推薦入学制度の話を聞くが、大学側が引っ張るのでなく、高校側の責任で12年生をしっかり終わらせて普通に受験するというのが新鮮に映った。12年生には独特の行事もたくさんあり、大変楽しく思い出深い学年なので、卒業後も後々までそこに居場所があって仲間に入れてもらえるのは大事なことである。日本の飛び級入学者は卒業式や卒業写真・同窓会なんかはどうなるのかなという疑問にはまだ答えを貰うチャンスが無い。

日本語と英語(子供の風景‐5)

 そのことば 日本語で言ってごらん えんぴつが2ほん、3ぼん Sはどこなの?

 そのことば 日本語で言ってごらん ママは今 電話に乗ってる いそがしいんだよ

 

 大卒後里心もあって地元に戻って高校で教えていたので、週1回のことでもNYでも補習校で教壇に立てることは魅力があった。父母会の当番で毎週子供たちの面倒を見に通うより教える側の方が良いかな、という誠に自分勝手な理由を見つけて補習校教員の公募に応募した。自分の子供がクラスに回ってくるのは困るので、次男が小1になった時に幼児部の受け持ちへ滑り込んだ。その昔、幼稚園の先生にあこがれて、大学進学の折、幼児教育では日本一と言われる国立を第1志望に挙げたが、思いがけない経過でテニスに流れてしまったことも今は昔である。

当時補習校の幼児部には小学校のようなカリキュラムは特になく、取り上げる教材は学校ごとの受け持ちにまかされていた。時の幼児部教師には専門家も居られ、ある年度に話合いで毎週やっている内容を持ち寄って年間カリキュラムを作成しようとの試みが行われた。NYに7‐8校あったと思うが毎月1回全校の授業内容を持ち寄って年間カリキュラムを整理・作成した。1年間良く続いたと思う。

公立の幼稚園副園長をしていた叔母からも助言を貰って、外国で育つ幼児部年齢の子供に必要と思われる教材を「日本語を使う」「自分と家族や社会」「四季の移り変わり」「日本の折々の行事」に柱をしぼって何とか年間カリキュラムをまとめあげた。ワープロもない時代で、字のきれいな年配の先生を口説き落として、同じ手で1冊に仕上げ、コピーを持ち合った。せっかく作ったのだから、と他州の補習校にも紹介したりして、やり遂げた満足感に鼻が高かった記憶がある。

幼児部をクリアして次に4年生を担当した。 

ある日の教材に「こそあど言葉」が出てきた。                        「みんな、もう英語でやったでしょ?マーカーみたいなもの」・・反応なし、キョトンとしている! 「ああ あれか!」という気配も殆どなし。(あれっ、まだやってないのかな?」

そうしたある日、中1になって理科が始まった長男が教科書を持ってきて「これ、どういうこと?」と聞く。氷が水になり水蒸気になる個体液体気体の変化なので、ちょっと英語を混ぜながら説明しかけたら、「ああ、あれか、わかった、この間こっちの学校でやった、もういい」と行ってしまった。こんなことから、子供たちは英語と日本語を全く別のことととらえて両方が同じことを言っている、とはわかっていないのではないか、という感じが残った。それが、ある時期に何となく即座にわかる時がくるらしい。子供によってその時期は多少違うが早ければ4年生、ほとんどは5-6年生のESL組(外国人のための英語教育)に起きるあああれか・・だろう。そうすると英語、日本語どちらもぐっと理解の速度があがるようである。その頃から物をどちらの言葉で考えるかがはっきりしてくるとようだ。駐在に子供を同行した親は子供の英語がどの段階に居るのかよく観察して成長に応じた対策を考えなくてはならない。

我が家では小4で来た長女は高校卒業まで日本語の方が速く、エッセイや読後感などは日本語で本を読み、考え、英語に訳していたようである。5・6歳で来た下の二人は、早早英語界に入りこみ、英語で考えては知る限りの日本語に変えて口に出すので冒頭の状況が日常になる。電話は乗っかるもの(on the phone)で忙しい(Busy)、パパを駅に取りに行く、等々。主人が「パパを取りに行く、とは何事だ!」とどなるがPick-upはPick-upじゃない?と援護に回らなければ子供が可哀そうである。

こういう時期にもう一つ忘れてならないことは、子供の成長は特に低年齢期は想像以上に速いものだ。その時期に成長に必要な知識の養成を怠らない努力が必要だということかと思う。アメリカに来た当初、英語に慣れるまで…と補習校への入学を避けることは子供の成長を一時止めることになってしまう(と研究者が強調している)。ESLでの英語習得は子供が幼児期にやっと言葉を覚え始める最初から始まるからである。何語であってもかまわないから年齢相当の教育レベルを維持すべき、と。脳の成長に空白を作らない工夫が必要、ということだと解釈している。英語圏に連れてこられた子供たちが、年齢相当の知識を英語から受けられるようになる、つまりバイリンガルとまでいかなくてもESLから抜け出して、英語の授業で皆と変わりなく普通に学習できるようになるのに最低でも2年から3年かかると思っている。日本でトップ10%に居た子供がこちらでもトップ10%に入れるようになることが目標であろう。しかし、そこまで当地に居られる駐在組は余りいない。

 

 

 

送り迎え(子供の風景‐4)

アメリカ生活が始まったが、英語で学科賞を貰い大学で英語経済迄取ったというのに、案に相違して、片言の日本語英語では笑い話ばかり、コーヒーを頼むとコーラが出てくる、などは日常茶飯事だった。ああ、読み書き中心の日本の英語教育世代の悲運よ!お粗末ながら6か月経った頃にはテニス仲間から話が通じないから電話に「(10歳の)娘を出せ」と面目丸つぶれの事態となった。そろばん片手に専門科目の貸方・借方やってた方が英語よりずっと楽だ、とため息しか出なかった。後々子供たちが「ママの英語ってこんなだったのかなあ、あの頃は頼りになると思っていたのにね…」と話しているのを聞いてしまって、威厳も何もあったものではない、とすっかり自信喪失に陥ったものだ。

新規事業を立ち上げて大奮闘の主人にはなるべく迷惑をかけられない、と自身も大車輪で奮闘するが、三人の子持ちの母親の毎日の一番の仕事は、子供たちや亭主の送り迎えであった。今でこそ車は一人1台の時代になったが、渡米の最初は会社も家計も予算に余裕などなく、朝晩の主人の駅までの送迎、出張時の空港行き帰り、子供たちの学校やおけいこごとの送迎は全部母親の仕事だった。アメリカ生活は、まず「運転免許を取って送れないと空港へ車持っていくぞ、困るんじゃないか?」とケネデイ空港迄の運転の特訓から始まったように思う。主人の通勤と3人の子供の登校が朝晩2-5回、おけいこ事が英語、楽器とバンド、テニス、はては水泳やスケート、友達との約束したお遊び…毎日こっちを連れてって、あっちを待たせて次の予定へ送り込む、その間に駅へ汽車は着くし、おなかすいた、の声も出る日の連続であった。子供が寝静まった深夜、どれほどケネデイ空港で出張帰りの到着便を待ったことか。携帯電話のないあの頃、居眠りして主人が乗り過ごした通勤電車を追いかけて夜中に次々の駅を駆け回ったこともあったが、よく無事だったなあ。

大人の運転に一切を任せる子供たちの生活は色々制限もあるが、代わりの交通手段が無いため一般に「子供のPick-up」は優先順位が高く、大目に見られているように思った。子供はまだレッスンが終わらずコーチが話をしていても、親の姿が見えると平気で出て行ってしまう。駐車しないで街角で拾う場合も結構あって「親は待たせられない」がまかり通っていたと思う。その代り、16歳になって免許を取るまでは子供たちの行動は全部知ることが出来て安心である。又夕方以後の送迎は男親がする場合が多く、アワードミーテイングを迎えに行ったら女性は私だけで、知り合いに「ミッキー(主人の呼び名)は出張か?」と気の毒に・・という顔をされた。

ずっと後、子供たちも大学へ行き、することが無くなった頃、皮肉にも事業がリモを頼める迄順調に伸び、出張の日は毎回決まったリモ会社が家に来るようになった。世の中って皮肉ですよね。

 

 

グループ分け(子供の風景‐3)

二人のリーダーが前に立ち、周りを囲む子供たちの緊張した顔を見回しながら代わりばんこに自分の組に入れたい子の名を呼んでいる。呼ばれた子はパーっと顔中をくしゃくしゃの笑い顔にしてリーダーの方へ走り寄る。だんだん残りが少なくなりその子たちに泣きそうな表情が現れる。偶然通りかかって なんとなく見ていたが、なんと酷なことを平然とやっているのか!と憤りを覚えたが、聞けば毎日遊び場で行われる儀式で、そこからその日の遊びが始まるのだそうだ。

ここはNYの郊外。日本人が大勢住むアパート群のすぐ隣にリトルリーグの公式野球場があり、格好のプレイグラウンドがくっついていて子供たちの毎日の遊び場になっていた。リトルリーグ専用の球場ながら正式なスコアボードもあり、時折の試合の際はアナウンスも聞こえてくる立派なものだ。

その遊び場でアパートに住む日本の子供たち十数人が6年生を頭に毎日放課後集まって昔の「隣り近所」さながらに遊びまくる。同じスクールバスで一斉に帰ってくるし、小学生は宿題はほとんどないので集まりやすい。遊びはフットボールや三角野球からリーダーの後をついて同じことをやる行進まで全く色々なことを考え出すものだと感心するくらいある。ジャングルジムにちょっと上り、ブランコをひとゆすり。鉄棒に飛びついて飛び降りる、平均台を走ってわたり、すべり台を駆け下りる。我が家の次男坊は幼児部なのでもう一人と一緒に「はぶせ」で、人数に入らないがやはり組み分けされ、首に巻いたはやりのスーパーマンのマントをなびかせてみんなの後を必死に追いかける。リーダーはグループの皆の様子を見て速さを加減し、最後の子がチビたちが遅れないように、迷子にならないように、と気を使って手を貸しているようだ。外遊びが途絶えた日本とは別天地の風景がここにあった。

このような組み分けのやり方は学校でも、レッスン先でも一般的に行われていた。日本なら感情抜きに少人数なら「どん、じゃんけんぽい!」とか「グッとパ!」で分かれるし、体育の時間なら背の順に並んで、「いち、に!いち、に!」と声をかけて1と2に組み分けするところだ。

ところが当地ではこのような「ドラフト制」が一般に行われていた。夏休みに転居してまだ知り合いもいないのでまずテニスレッスンをとらせた。7歳までの幼い子たちのクラスでも組み分けドラフトがあった。2組みでの競争は、ボールをついてラケットで打ち、ネットを超えたらボールを取りに走っていって次の子に渡す。勝った組は「棒つきあめ」をもらえるというもので、毎日レッスンの終わりにやることになっていた。しっかり打たないとネットを超えないので当然下手な子がいるとやりなおしで遅くなる。我が家では日本ですでにラケットを持たせていたので一度で簡単にクリアできる。

ところがリーダーは幼いので、当然ながらまず自分の知っている子・好きな子からピックしていく。いつも我が家の二人と黒人の子が残された。そして、リーダーは考えた末に黒人の子、そして次男を先に、最後に長男が残る。誰がリーダーでも決まってそうなった。様子を見に来ていた祖母が「かわいそうだ、やめさせなさい」とわめく日が続いた。こちらも見ていて涙がこみあげてくるわけだが、何分にもまだ様子がわからない。コーチが何も言わないのだ、ここが我慢のしどころ、と唇をかんでいるうちに、気の利いた女の子が上手な長男をとれば勝てることに気がついた。親御さんか誰かが耳打ちしたかもしれない。それからはガラッと順番が変わった。

長じて野球のリトルリーグでも、果ては学校でのトリップに運転に駆り出され、乗せる子供を決める際までもピックが普通に行われていて驚いた。子供たちの仲間を見る目はシビアでけっこう的をついていて、組み分けする目的でほぼ順番が決まっているらしく、子供たちは嫌でも自分への評価、仲間の中で置かれている位置に気づいてしまう。そのことを我が家のちびどもはどう考えているか、ややこしい日本語が通じないので聞きようがない。後に野球のリトルリーグでは、3つの町合同でのドラフトに毎年いの一番に指名されるようになっていたので、こちら風の実力重視の格差容認を案外当たり前に受け入れていたかもしれない。

目立つように人を押し分け、踏み超えて世の中を渡っていかなければ生き残れない世界なのか?じっと実力を養って気が付いてくれるのを待っていられる社会か?と又しても親の身勝手で無理やり連れてこられた子供たちに幸多かれと祈る毎日であった。

初参観日(子供の風景‐2)

椅子にすわった先生の周りに子供たちが胡坐をかいて先生の顔を見上げている。膝を抱えて座る日本式でなく、皆あぐらだ。

つと、一斉に立ち上って自分の席に帰り、鉛筆を1本取り出して又わっと戻る。1拍遅れて我が息子が立ち上げり、みんなの後を追う、が何をするのかわからない様子で回りをきょろきょろ見てから同じように鉛筆を取り出してみんなの車座に加わろうとする。輪に入りきれなくて一つだけお尻がぽこんとはみ出している。ここまで見てもう涙が止まらない。ああ、親の都合でなんとむごいことを子供たちにおしつけているのだろうか・・・

夏休みに渡米し、具合よく9月の新学期からアメリカの1年生に入れた長男の最初の参観日のことである。人懐っこい次男は物怖じすることもなく新環境にすんなり溶け込み、「May I go to bathroom?」を連発しては教室を抜け出しているらしい。1日目泣いて先生に抱かれて教室入りした少し人見知り気味の長男を心配していたが、放課後近所の日本人仲間と活発に遊んでいる姿を見ていたので、気楽な気持ちで参観に来たのだった。

しかし、しかし、目の前の風景に出会って、こんなこととは露ほども思わなかった。親の方は英会話は全く駄目だが、書いたものは読めるし、周りに日本の方もたくさんおられる地区なので無理に現地の方と交わる機会を作る必要がなく、殆ど生活には困らない。子供たちが, 聞いたことの無い言葉の中で毎日を気を張って過ごしていることには全く考えが及ばなかった。息子二人は幼児部と1年生で、日本語だってまだ十分でない。さらに家ではその不十分な日本語を話せと言われて暮らしているのだから、あの子たちの頭の中は今どうなっている?起きていることと聞こえてくる言葉に注意を払い、勘を働かせてあれこれ考えているのか?泣きたくもなるかもしれない。親としてどうしてやればよいのか?

主人の仕事で渡米が決まった時、短期の滞米で子供の教育・特に2か国語の習得に苦労したという話を色々聞いていたので、子供たちの将来を考えて、あぶはち取らずにならないよう帰国を考えず、腰を据えてアメリカで教育を受けさせようと決心して日本を離れた。地方には直接影響はなかったが日本の「お受験」話が歪んでいるとの印象が強い頃だったので迷いは無かった・・と思う。

涙を誰にも見とがめられないようにこっそり収めて、さて私はどうすれば良いのか‥?主人は新規事業を軌道に乗せることに没頭し、家を顧みる余裕は無さそうだ。とりあえず毎日子供たち3人の顔色を確かめながら様子を見ていたある日、夕方家に帰る時間に戻ってこないので公園に探しに出たが、いつもの日本人グループの中に姿が見えない。さて一人皆と離れてどこにいるのかなと尚も探して歩いたら、木陰の地べたに足を開いて座り込み、アメリカ人の男の子と向かい合っているのが息子らしい。両足の間にその頃はやりのベースボールカードを差し出してはじゃんけんとはちょっと違うこちらの指を1本か2本か出して勝負するやり方で相手とやり取りしている姿が見えた。要らないカードをトレードに出すとか言ってたあれか?それにしてもあれで通じているのかな、と思うと同時に「大丈夫、この子たちはたくましくやっていくだろう」と心から安堵した瞬間だった。

長男6歳の秋のこと。

 

 

 

 

 

おやじの一言(子供の風景‐1)  

                おやじの一言       

 「散髪はおやじの仕事だ」と何かに書いてあった。

「そーか、俺の出番だ!」 櫛とはさみでやってみた。

上手くいかない。

「そうだ、坊主がいい、バリカンだ!」

 刃物屋の主人が同級生で、これが又悪い。

「ヤマちゃんの息子?じゃあ、5厘で良いな! おーい、5厘のバリカン持って来い!」

かくて、くりくり坊主が2つ出来上がった。仲間の家族旅行で皆が代わり番こになでに来た。たちまち一番の人気者だ。

 

1回目はすんなりいった。

上が幼稚園に入った春、抵抗にあった。

「坊主はいやだ!」

「ナンマイダーっ、ポクポク・・(叩く真似)」と片手拝みにはやされるのだそうだ。(幼稚園でそんなこと知ってるのかいな!ここは聖母幼稚園だぞ。校庭のマリア様がみてござる!)

「パパだって小さい時坊主だったんだぞ!おんなじだ!」(昭和20年代の話だけど)

この坊主、くりくり頭に似合わずのかわ気が小さい。何があるかわからない日は(夏休み明けのくろんぼ大会とか)朝おなかが痛くなる。

この世知辛い世の中、図太く生きてくれよ、とおやじはつぶやくのみ。

 

思いがけない所から古い小冊子が出てきた。題して「おやじの一言集」。種を明かせば、これは幼稚園の父親参観日に書かされた一言で、急な出張で出られなかったおやじの代りに書いたもので、話してないから彼は多分知らないままだ。

この1年後、アメリカはニューヨークへ渡った。アメリカで坊主頭でもないわね、と伸ばしかけの髪をなでつけて、坊主どもは渡米した。

15年後、長女の結婚式に、花婿の友人たちとアテンド役で並んだ二人のタキシード姿に涙が出るほど嬉しかった‼

 子どもは強い!ゼロからのABCと格闘し、苦労もあったろうが、40年後の今日、肝っ玉が小さいと心配したくりくり坊主はWall 街、年子の二つ目は車のソフトを追ってと世界中を、結構したたかに飛び回っている。